2009-04-15(Wed)

相模の屋根:「丹沢物語」(5)

相模の屋根:私的・「丹沢物語」(5)


「西丹沢」
西丹沢
blank">犬越路
写真:西丹沢の山様と犬越峠


次に「西丹沢」であるが、こちらは小田急・新松田駅から富士急行バスで西丹沢、箒沢方面行きに乗込むことになる。
山麓ベースには御殿場線の「山北駅」などもあるが、乗継が不便なこともあって、やはり新松田駅がベースになるようである。
こちらは東丹沢や表尾根の山容とは異なり、バスで1時間以上も揺られることになり、従って奥深く静かな山歩きが楽しめる。

現在は、途中に「丹沢湖」(三保ダム:ダムは1978・年昭和53年に完成している)があるが、我等が西丹沢に入った当初の頃は未だ完成しておらず計画段階であったらしい。
丹沢湖には、丹沢主稜域より玄倉川(くろくらがわ)、世附川(よづくがわ)、中川川(なかがわがわ)等の支流が流れ込んでいるが、玄倉川といえばあの水難事故が生々しく記憶に残る。

1999年8月14日に玄倉川の中州でキャンプをしていた横浜市に本社を置く会社社員と子供6人を含む家族、社員の婚約者および恋人を含む客18人が熱帯低気圧の大雨による増水によって流され、社員5名と妻2名、1歳から9歳の子供4人を含む13人が死亡した事故である。
この水難事故においてはキャンプ客が水流に流される瞬間がテレビで中継されたため、世間に大きな衝撃を与えたのであった。

玄倉川上流部、事故現場から10km圏内の峰々には、雨山、鍋割、塔ノ岳、丹沢山、蛭、桧洞、石棚という丹沢の核心部である名だたる山峰が、ユーシン渓谷を中心に扇状に連なっているのである。
そして、派生する尾根や谷筋は全体的に急峻な渓谷が続き、谷壁斜面も急傾斜なのである。ここへ大雨がきたら雪崩のように一点集中で、短時間で河川へ流れ込むのである。 
遭難した人たちの中に、山の様子を知る人が一人でもいれば・・、と思うと無念でならない・・。

チョット反れたが・・、丹沢湖より先は「中川温泉」、更に先方に終点の「箒沢」の部落がある。 途中の中川温泉は、水と緑に囲まれた静かな温泉場である。
古くから「信玄公隠し湯」として知られ、信玄が北条氏康との戦いで負傷した傷兵に湯あみをさせたと伝えられる名湯である。中川温泉の特徴はアルカリ性が強く、pHが10以上にもなるということで、皮膚の表面を軟化させたり皮膚の脂肪や分泌物を洗い流すので「肌もつるつる」、傷に効くだけでなく「美人の湯」ともいえという。

終点の 「箒沢」は落人の集落として知られ、奥州から落ちのびてきた人達が道志から山を越えて来て、大きな杉が2本あったことから、この地に安住の地を求めたといわれる。部落へ入った来ると左手に巨木が姿を現す、箒杉である・・。
樹齢は県内で最高齢と推定され、その堂々たる高さや幹の太さの姿に圧倒され、現在も樹根や枝ぶりはまだまだ元気だという・・、当然国の天然記念物である。集落は二度の大火に見舞われて、部落の財宝や古文書などすべて消失してしまったと伝えられている。

この箒沢からは、桧洞丸(1601m)、大室山(1588m)、加入道山(1418m)、畦ヶ丸(1293m)、菰釣山(1348m)等の山々が扇のように周囲を取り囲んでいる。
小生も折にふれて西丹を訪れ、各峰に登っては帰りに中川温泉で汗を流して帰ったのを思い出す。
中でも箒部落にテントを張って集中登山をしたおり、帰りが夜半になり遭難してのでは・・?、と地元民に心配を掛けたのも今では懐かしく思い出となっている・・。 

桧洞丸と大室山の鞍部に「犬越路」というのがある、両方いずれかの山を踏破するとき必ずといっていいほど、この峠路を越えなければならない。1000mを越える大峠で武田信玄が犬を連れてこの峠を越えたことから犬越路という名称が付いたとも言われるが・・?、果たして史実はどうであろうか・・。
丹沢は1600m以下の比較的低山で、しかも八ヶ岳やアルプスのような峻険さは無い。だが、山が幾重にも重なり、山塊の中央核心部や西丹では、関東には珍しくブナ林が密生していて水量は豊富で、そのため多くの深い渓谷を形作っている・・、丹沢というのは、見た目より険峻なのである。
したがって、山中を縦貫し越えるのは容易ではなく、かろうじて東のヤビツ峠、西の犬越路だけなのである。
今は、峠直下に「犬越路トンネル」が完成しているが、ヤビツ峠と違い一般車両は通行禁止になっていて、犬越路を越えられるのはハイカーに限られている。

戦国期、16世紀の中頃は、この地は甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川が合い争う三角帯の地域だったのである。
武田と北条の「三増の合戦」(1569年)については前述したが、この合戦は日本の合戦史上有名であり、結果として両者引き分けで相変わらず対峙状態は続いていた。
その2年後、今度は武田と北条の合戦において武田軍は今川領でもあった北条支配の「深沢城」」(御殿場市深沢・東名足柄SAの近く)を陥し駿東を手に入れた。
これによって武田は気兼ねなく西側からの北条と対することが出来る。
信玄は、小田原へ最短である大月、都留より道坂峠を越え、道志より更に西丹沢の西端である峠を越え、酒匂川より北条の小田原本城を覗ったとみえる。

武田信玄が北條攻めに使ったとされる道程は、道志村から三ヶ瀬川に沿って城ケ尾峠を越え、地蔵平に陣を張ったとされている。
地蔵平は、二本杉峠と経て中川温泉に出る「さかせ古道」が通過していた。
地蔵平の近くには、武田信玄が宿陣した「信玄平」や将兵が米をといだ水を流したという白水沢などの地名が残っている。
この中川温泉は昔から「信玄の隠し湯」としての言い伝えもあり、今も戦国期より開湯したという「信玄館」もある。
当時、この辺りの地は中川城(山北)、河村城(山北)といった小田原城の支城があり、北条氏康の支配下にあった。 ただ、信玄が中川城、河村城と交戦したという記録は定かでない様であり、両城は、後の秀吉との「小田原の陣」において落城するのであるが・・。

酒匂川上流界隈の地元民は、どうしたわけか地元の北条氏より武田(信玄)びいきであるという。 このことを考察すれば、この地での武田、北条の諍いは多少あったものの、激しい戦闘、戦乱はなく、従って、信玄は地元民を害することなく、しかも、慈愛の念をもって接したと言われる。 そして、ほぼ不戦の状態で甲斐へ戻ったとされる。
何故なら、これには多少の訳があった。
この時期、西域では信長、家康が伸張してきた時期でもあり、お家をこれ以上永く留守をすることは適わなかったからである。
撤退に及んで北の山、即ち箒沢部落から犬越路を越えれば最短で甲斐国(山梨県)へ達するのである。 信玄は不明瞭な峠道を軍用犬を先導に「犬越路」を越えたのではないかと想定されるが・・?、・・。
信玄は、翌年の元亀3年(1572年)12月、徳川家康との「三方ヶ原の戦い」で、これに勝利するが、直後の元亀4年4月陣中で病没している、享年53歳。

次回は、「丹沢の主峰」


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