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2012-03-06(Tue)

大菩薩峠・紀行(33) 「泉水谷学校沢」

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大菩薩峠・紀行(33) 「泉水谷学校沢」 .




さて、「黒川金山」関連にて横道へ反れたが、元のルートに戻そう。
泉水谷の一路である。

あたりは想像通り自然林がすばらしく、尾根の木々、沢沿いの木々、大木も多い。
まもなく支沢を跨ぐアップダウンを何度か重ねて、どんどん下るようになると大黒茂谷出合に至り、泉水谷から木橋でをわたれば、ここにも水源巡視路であろう立派な林道がついていた。


案内板によると大黒茂谷の上部支流に「学校沢」という珍しい名称が目に留まった。

往時の、東京都水道局の水源管理事務所丹波山出張所長の岩田氏によれば、大黒茂谷の源流部は、明治41年に東京府が水源林整備のため炭焼従業者を入植させた場所であるという。

元より、この集落は丸川峠の麓、牛首谷の出合にあった泉水小屋群が、豪雨で荒廃したため移住してきた地域であり、小学校まであったという。

又、瓜生卓造氏(作家、自然派の山岳愛好家;「奥多摩町異聞」、「檜原村紀聞 その風土と人間」とを合わせて奥多摩三部作といわれ、奥多摩源流域の自然と生活を紹介している)の「多摩源流を行く」などの文献によると、『大黒茂谷の源流部は、明治後年には東京府が水源林整備のため炭焼従業者を入植させた場所だったといわれる。この地には豪雨で荒廃した泉水小屋付近からの移住してきた人たちの集落があり、小学校まであった』と記されている。

確かに、この付近の沢や尾根には「学校」という名がつくことから、ここに学校があったのだろう。
当時は、用事で村役場へ出るにもまともな道路すらなく難儀をきわめたといい、現代には想像もつかないことだが紛れもない事実だという。

尤も、村役場(丹波山村)へはともかく日常の生活物資などは、峠(丸川峠)を越えて塩山裂石側へ出たほうが労苦、時間的にも容易と想像もされるが・・?、しかも、裂石には1200年も前に湧き出したという温泉もある。


自然林を愛でつつなおも先を行くと40分ほどで道が左へ戻るように延びている分岐に着いた。 
次は北尾根末端の小室沢出合へのびる道である。
大黒茂林道と同様、こちらも自然林が素晴らしく歩みの楽しい道だ。

このまま出合まで順調に行けるつもりで歩いていたが、ところどころに崩落地があり高捲きを強いられる。 
慎重にトラバースしたりとやや緊張したが、危ないのはこの辺りだけだった。


次回、「泉水谷林道




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2012-03-06(Tue)

大菩薩峠・紀行(32) 「おいらん渕、一の瀬集落」

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 大菩薩峠・紀行(32) 「おいらん渕、一の瀬集落」  .



写真;おいらん淵


一ノ瀬高橋に残されている廃校になった小学校。
中央の時計と左右のスピーカーが現役のようである。



丹波三条から更に3kmほど上流、青梅街道が一の瀬方面に向かう分岐近くの淵に「おいらん渕」というのがある。

戦国時代の黒川千軒といわれたころ、金山の近く女郎郷に金山坑夫慰安の為の遊女を多く置いていた。
ところが武田家が滅亡し、金山経営できなくなって廃山しようとした際、当時数十人もいた遊女たちを金山の秘密が漏れることを防ぐため渕へ沈め たという。 

この際、柳沢川に宴台をつくりその上で演舞をさせ、舞の最中に宴台を吊っていた藤づるを切って宴台もろとも淵に落としたという。 
これが「おいらん渕」の伝説の元になってといわれる。

下流丹波山村にはその遊女の死体を引き上げお堂を建てて村人たちが供養したと伝えられる。
現在、お堂は朽ちて無くなったが、この地を「おいらん屋敷」とも呼んでいて、付近に供養塔も立つ。


おいらん淵」の近く、丹波川が一之瀬川に変わる林道に沿って登ってゆくと、白樺林が美しい一の瀬高原に出る。
(多摩川の上流の一之瀬川合流地点から約7km下流の奥多摩湖までを丹波川といい、奥多摩湖から下流は多摩川となる。 「丹波(たば)」が「多摩(たま)」の語源であるとの説もある。)



一の瀬高原(標高1100~1300m)は一之瀬、二之瀬、三之瀬の集落があり、北には雁坂嶺、笠取山、唐松尾山、飛龍山、から雲取山に至る標高2000m前後の山並みがそびえている。
無論、この集落は多摩川流域の最深部に位置している

この地区は多摩川の源流部であるが、実際の源流は山梨と埼玉の県境にある標高1,953mの笠取山の山頂直下南側にある水干(みずひ)と呼ばれる場所で、ここから最初の東京都民を潤す、1滴の水がしたたり落ちるのである。


集落は静かな里山の風景に溶け込んだように形成されていて、茅葺屋根の素朴な古い民家や黒川金鶏寺という古寺が点在している。 
お堂の屋根には武田菱の家紋が設えてある。


家々は、時が止まったような昔のままの姿で、古き日本のふるさとをテーマとした映画のセットのような感じだ。
そう、ここは武田信玄の隠し金山「黒川金山」の黒川金山衆の末裔の地と言われている。
金山が閉山になった後、関係者は、全国に散っていったが、一部の人たちがこの地に住み着いて、農業や林業などをしながら暮らしていたらしい。
これが、一之瀬集落の起源ということなので、現在住んでいる人たちの祖先は、金山で働いていた人だったのかもしれない。


周回道路の犬切峠を越えて南に下ると一ノ瀬高橋字三角地区、高橋部落があり、山中に放光山高橋寺黒川鶏冠神社の里宮などがある。

黒川の山頂にある小祠・鶏冠神社の奥宮は、黒川鶏冠山の頂上にあったことは先に記したが、黒川金山の守護神である鉱山の神・金山彦命という祭神をを祀ってある。
御神体は、山名にもなっている鶏(ニワトリ)大権現とも伝えられる。


一ノ瀬集落は、昭和初期は100世帯ほどあったとされるが、現在は29世帯に49人が在住されている。 その中で高齢者が半数を超え、学童は一人もいないという。

一之瀬高橋に伝えられている華やかな「春駒踊り」は金山衆の末裔の集落である証でもある。


現在、冬場はほとんど人は住んでなく、一つだけあった分校も今は廃校になっているとのこと。 
ただ夏は民宿やキャンプ場がオープンし、結構賑わうらしい。

尚、周辺に数件ある民宿は家庭的なもてなしと、野菜の煮物や手打ちそばなど、おふくろの味が魅力だという。
多摩川源流・水干への登山は、一の瀬からだと片道2時間以上は必要であろうか。


次回、「学校沢



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2012-03-05(Mon)

大菩薩峠・紀行(31) 「武田金山史と金山衆」

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 大菩薩峠・紀行(31) 「武田金山史と金山衆」  .



黒川金山から採掘された金鉱石は、選り分けられて金粒にし、更に精錬され、初期には甲州金(秤量貨幣;貴金属としての品位・量を検査してその交換価値を計って用いる貨幣)に、後には計数貨幣(一定の品位・量を保持しており、その枚数によって交換価値を計る貨幣)に仕上げられ、これが武田の莫大な軍用金(一説には48万両)として用立てられたと言われている。


信玄の時代の最盛期には、鉱山の住人は1000人近くに達していたといい、金山衆(かなやましゅう;金山を運営していた、自立した山師、山主の集団)は武士も兼ねていましたので、いざという時には戦にも加わり、坑道掘り、採掘、水抜き坑道の技術など鉱山で身に付けた技を駆使したともいう。

実際に、黒川金山には6人の金山衆(親方)がいたとされ、彼らは鉱山採掘権をもち、武田氏と主従関係を持つ自立した名手的武士団であった。

彼らは武田氏の城攻めにも加勢して、北条勢や織田勢相手に多大な活躍をしている。
現在の塩山市の上荻原から於曽、熊野方面にかけて居住していて、今でもその屋敷跡がある。


勝頼の代に入り、長篠の合戦(織田、徳川軍との戦)で敗れると、織田、徳川軍に金山を利用されるのを恐れ廃坑にしたとされる。
この時に鉱山の機密が漏れないよう口封じの為、いわゆる「おいらん淵の伝説」(後述)といわれる女郎達の残酷な処分が行われたと言う。


徳川時代に入り、大久保長安により黒川金山が再びは採掘され、この時、武田当時の黒川千軒はほとんどが一之瀬に移住したとされている。

明治時代に入って何度か金山の再堀、再開発事業を興こそうとしたが、採算がとれず失敗に終わっている。

一之瀬集落( 標高1200m))に移り住んだ金山衆はそれ以後、農林業従事していたという。

明治45年(1912年)に東京都水源林(当時は東京市)となってからは金の採掘は禁止され現在に至っている。


次回、「おいらん渕と一の瀬集落」




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2012-03-01(Thu)

大菩薩峠・紀行(30) 「黒川千軒」

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大菩薩峠・紀行(30) 「黒川千軒」 .




黒川金山の坑口跡


黒川千軒の遺跡群;テラスといわれる住居跡が無数に存在する



青梅街道の泉水谷出合、つまり三条河原から少々上った黒川谷へ入ってから凡そ1時間30分、水源付近から黒川千軒の遺跡群が顔を出す。

石垣らしきものが現れてきて、これはテラスと呼ばれるもので、黒川千軒の中心部の番兵小屋跡や家や作業場(精錬所)等十数ヶ所の跡が残る。

次に、黒川金山循環路と呼ばれる急な斜面には何れも石垣で仕切られた数十ヶ所のテラス群が不規則に並んでいる。 
その最奥部に坑道口である坑道跡が現れる。 

黒川千軒は、沢沿いに幅約300m、長さ約600mにわたって家や作業場などが無数に建っていたらしい。

凡そ400年前、これほどの山奥に賑やかな鉱山街があったことは驚きである。

そこには戦に敗れた信州や武州の民が連れてこられて奴隷のごとくこき使われ、そして二度と故郷へ帰ることなく死んでいったのだろう。 

事実、黒川金山には信玄が戦で勝って捕虜となった人達が大勢連れてこられたとのことで、塩山の「放光寺」には金山で犠牲になった人達を鎮魂する仏像が祀ってあるとのこと。


彼らが命に代えて掘り出した金は甲洲金として武田信玄の躍進の原動力となった。 
今は朽ち果てた遺構が悲しい過去を物語るだけで、やがて忘れ去られようとしている。

本来なら、周辺自治体か国で管理保存して、現世、後世の世に残しておくべき遺構なのであろうが、何せ余りの山中深く入組んだところである。 
その遺構も近い将来土に返ることだろう。


黒川金山の北方、一之瀬高橋地区には竜喰谷金山、牛王院平金山 、更に北方、奥秩父の山域にも数箇所の金鉱山があったらしく、それらに由来する地名が数多く残されている。


黒川金山は武田晴信(信玄)の隠し金山であったという伝説とほぼ一致し、武田信玄の親、信虎の代(1530年)に始まり、信玄の子、勝頼の代で廃坑(1576年)になったとされ、46年間に亘って採鉱されていたことになる。

それ以前にも、多摩川の源流部の一之瀬川が柳沢川が合流するあたり、更に下流右岸の黒川と泉水川が合流するあたりにおいて、既に、武田一族が金山を手掛ける以前に砂金掘りで相当賑わっていたといわれている。


ところで、黒川金山跡(標高1200~1400m)の地下には、モグラの穴道のように間歩(坑道)というのが縦横にはり廻らされているという。
その間歩は年月を経るとともに陥没や崩落がおきていて、あちこちに大小の痕跡が残っている。 
そのためか過去に金山に足を踏み入れて、帰らなかった人もいたという。

現地では入山時、山道から反れないようにと、又、坑道の探索には十分な注意が必要という。


次回、「武田の金山衆




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2012-02-29(Wed)

大菩薩峠・紀行(29) 「黒川金山」

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大菩薩峠・紀行(29) 「黒川金山」 .



黒川鶏冠山の山頂直下にある「鶏冠神社・奥ノ院」



大菩薩の北部直近の地に黒川鶏冠山(標高1710メートル)という山がある。 
その東側山腹の黒川谷源流部に黒川金山跡がある。


黒川金山の歴史は、既に平安、鎌倉、室町時代を通じて資料などにも残されていて、当地を支配していた豪族三枝、安田、武田氏とのかかわりを伝えている。

又、実際の採鉱については戦国期の武田信虎時代からとも伝えられ、特に武田信玄時代が最盛期であったとされている。
武田軍の軍用金の多くはこの黒川金山から産出された。


ところが子息の武田勝頼の頃には衰えて一時閉山となったが、徳川時代になって、大久保長安らによって再び採鉱がおこなわれたという。
その後金の産出量が減少し閉山となった。

黒川金山には、黒川千軒といわれた時代の坑道跡、坑夫の住居、作業場の跡がみられる。


この地域は他にも竜喰金山、牛王院金山などがあり歴史的にも注目されているという。
また、金山を管理する金山衆は、在地武士団を形成して塩山市内上萩原、下於曽、熊野方面に住居を構えていたとされる。


鶏冠山の山頂には黒川鶏冠(とさか)神社の奥宮が祀ってあり、この宮には大同2年(807年;平安時代頭初)と刻まれた鰐口(わにぐち;お堂の前に布を編んだ太い綱とともにつるしてある円形の大きな鈴)と、天正5年(1577年;盟主・信玄無く、長篠の合戦に敗れて武田家の衰退がはじまる。 勝頼の時代)の銘の入った金鏡が奉納されていたといい、その歴史の深さが記されている。


黒川金山の遺跡として坑口、坑道、坑道の陥没ヶ所、製錬場、作業場、石組み、炭焼場など雛壇状に整地されている。
又、作業場も兼ねたであろう居住地跡は建物もなく草木に覆われているものの、黒川千軒の形跡を今に止めている。


次回、 「黒川千軒




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