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2009-04-08(Wed)

相模の屋根:「丹沢物語」(2)



相模の屋根:「丹沢物語」(2)


tz3
写真tz3:大山阿夫利神社


「丹沢の歴史」

さて次に「丹沢」を丹歴史的な意味合いから観て見よう・・、
丹沢山塊は古来より信仰の山として知られ、山伏など修験者の修業の場として古くから入山はあったようである。
山岳や地名にも、東丹沢では仏果山、経ヶ岳、華厳山、法輪堂(おろんど)、表尾根では行者ヶ岳、尊仏山(尊仏塔ノ岳)、他に薬師岳(蛭ヶ岳)、菩提、などと仏教にからんだ信仰的な意味合いの名前が数多くある。
塔ヶ岳は、以前は山頂に尊仏岩という数丈(5丈8尺という)の立岩があって、これを「お塔」と里人が称したので塔が岳という山名が付いたと言われ、又の別名に尊仏山というのも、この尊仏岩から来ているのであるが、大正11年の大震災のとき「お塔」は沢へ転げ落ちたままになって今は山頂にない。

このヤビツ峠から塔ヶ岳に至るまでの尾根続きにニノ塔、三ノ塔、行者岳、新大日岳、木ノ又大日岳という峰があり、仏語で名付けられた山がある。山名ばかりでなく、川や谷、峠、部落の名にも仏語があり、山名や地名の起源には何れも宗教的な伝説も残されているという。
丹沢主峰の蛭ヶ岳、東丹沢主峰の大山を中心とする一帯は、昔、山岳修験者の修法の霊場であったともいう。
東方の鳶尾山北方・八菅神社(愛川町八菅山)には、入峰者の名称・位・入峰回数などを記録した古文書が残っていて、伝説では奈良期の大宝3年(703年)に役の小角が八菅山に入山したともある。 
修行者は、この地を起点に平山・塩川滝(中津川沿いの山地)などを経て大山まで加持祈祷を唱えながら修法を行っていたといい、煤ヶ谷(清川村)は、これら修験者達の中継所だったともいわれる。 修行行脚は江戸末期まで続くが、明治維新の神仏分離令によって廃止されたという。 

又、東丹沢の主脈である仏果山系には特に仏にちなんだ名称が多い・・。室町時代の始め、正住寺を開山した天鑑存円上人(仏果禅師)が座禅修行をした山と伝えられ、仏果山という名前の由来となっている。
小生、若年の頃、経ヶ岳よりほぼ廃道と思しき主脈を南下した時、山道沿いに各様の石仏、石像が草に紛れて風雨に晒されて置かれ在ったのを記憶している。

実はこの地は戦国期、三増合戦(永禄12年:1569年、現在の愛川町三増が主戦場になった武田軍と北条軍とで行われた山岳戦)において武田軍に敗れた北条の落武者が経ヶ岳の山頂にたどりつき、これ以上逃げられないと覚悟を決め、持っていた経文を石の下に埋めて全員自刃して果てたといわれている。
このためこの山を「経ヶ岳」と命名したとも言われ、これら歴史の風害を感じる石仏、石像群は仏果禅師の修行によるものか、或いは戦において自害して果てた武者の弔いの像なのかは定かでないが、この山中に歴史の一端が覗かれるのである。


丹沢山域で今も神仏的歴史を育んでいるのは何と言っても「大山」であろう・・。 
人々は何時の世になっても、特に昔の人々は近隣に聳える姿、形の良い端正な峰を観ると、ついつい崇めたくなるらしい・・。
大山は丹沢山塊の東端に聳え、横浜や関東西部の平地から眺めると、三角錐の美形が鮮明に望めるのである。
大山は古来より、山頂に大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)、中腹に雨降山大山寺(別名 大山不動尊)、山麓には日向薬師(ひなたやくし)があり、阿夫利神社は、大山を御神体とし山頂には霊石が祀られていたことから「石尊大権現」と称されたという。
創建は社伝では、第10代崇神天皇の御代と伝えられ、西暦にして紀元前のことである。その後、奈良時代の僧・良弁(ろうべん・僧正)によって大山寺が、大山阿夫利神社の神宮寺として開山されたといわれる。

神宮寺とは、日本において神仏習合思想に基づいて神社を実質的に運営していた仏教寺院にことである。
因みに、西暦820年、空海(弘法大師)が47才の時、彼が東国を教巡していた頃、徳一大師の誘引により「大山寺」に上り、大山第三世管主となっている。
山腹の阿夫利神社の名を「石尊大権現」と名付け、徳一は、富士浅間社の神である大山祇神(オオヤマズミノカミ)を大山に勧請したとされている。

藤原徳一(とくいつ、760年~835年)は、奈良期から平安前期にかけての法相宗(奈良仏教)の僧で、父は大和政権中枢の藤原仲麻呂の十一男と伝えられている。
東北文化の開祖的人物で、小生の田舎、故郷(いわき市常磐)の古刹「長谷寺」の建立者とされている。

丹沢のシンボル的存在の大山(古くは雨降山ともいった)は、関八州の雨乞いの霊場でもあり、江戸時代には信仰の対象としての「大山参り」が大変盛んで、記録によると大山参りのための大山講が江戸を中心に各地に組織され、登山ができたのは夏場の短期間かつ許可が必要だったにもかかわらず、一夏に10万人近くもの参拝客があったという。古典落語の中にも「大山参り」という楽しい話がある。

「不動まで 行くのも女 だてらなり」

石尊大権現で知られる山頂の阿夫利神社本社の中にある大岩は、かって石尊大権現(石尊信仰)の聖地で、江戸時代は女人禁制であったといい、女性が登れるのはいまの阿夫利神社下社までで、山頂の奥ノ院へは登れなかったという。

又、「大山参り」をする江戸庶民は、出立の前に水垢離(みずごり・神仏に祈願するため、冷水を浴び身体のけがれを去って清浄にすること)をするのが仕来りだったという。
その時の唱えに「南無帰命頂礼、六根罪障(ろっこんざいしょう:六根に生ずる罪障)、懺悔懺悔(さんげさんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう:六根が福徳によって清らかになること)・・・・」と言葉を発し、人々は全身を清めるために大山を目指したのである。

下社から山頂へ登る途中には、同じ様な文字が彫ってあり、石尊大権現の石柱が目につく。又、石柱には「これより右富士浅間道」とあり、昔は富士講による富士登山ル-トに大山から富士へ、また富士の帰りに大山へ寄るのが通例だったともいわれる。
現在は明治期の神仏分離で山腹の阿夫利神社(山頂奥宮・雨降山)と中腹に大山不動尊は分離され、廃仏棄捨においても大山寺は幸いにして残され今も参拝者が絶えない・・。

大山街道が、この大山の懐に入って来ると沿道に何々坊とか、先導師何々と書かれた看板が目につく。 これが「宿坊」(先導師旅館)といわれるもので、明治期には約120戸もあったという、現在では50戸余りになっているが、参道階段の両側は大山土産物店が軒を並べ賑わっている。

次回は、 「丹沢を歩く・・、」

2009-04-08(Wed)

相模の屋根:「丹沢物語」(1)

丹沢山塊
写真:連なる丹沢山塊と富士

相模の屋根:「丹沢物語」(1)


「丹沢山塊」・・・、

山域名が「山塊」と言うのは珍しいのではないか・・?、
一般には山々の連なりの呼称として山系とか、山脈、連峰、連山、或いは山地という場合が多い・・、尤も、丹沢は“丹沢山地”と称する場合もあるが・・?。 
関東甲信越の山々の呼び方で「山塊」と称してところは他にもあることはある、長野県と新潟県の県境に聳える「雨飾山」(1963m・日本100名山)の北方山域の「海谷山塊」(うみたにさんかい)、 栃木県と福島県の県境に立つ「男鹿岳」(1777m)の一帯をいう「男鹿山塊」(おじかさんかい)、阿賀野川の支流早出川の上流を取り囲む山塊で粟ケ岳、矢筈岳(1259m)一帯を「川内山塊」などと呼んでいるようであるが・・。

しかし、百名山の雨飾山は別格としても、何れもメジャーな山でなく、山道なども開けていない山屋に言わせても未知の領域の山塊である。 
そこへいくと「丹沢山塊」というのは、余りにもメジャーな山なのである。

「山塊」という特殊な名称は、その山の成り立ちから付けられたとも言われる。 
遥か地球時代の昔、造山活動により洋上にあった伊豆の島(伊豆半島)が地核運動によって未だ未熟な日本列島に接触・衝突し押し上げられて、その衝突面に丹沢山塊を生じさせたといわれる。
地球規模でいうと遥かに規模が小さいので、一つの山の塊とし丹沢連峰、丹沢山脈とは言わず「丹沢山塊」と呼んだとも言われる。
因みに「ヒマラヤ山脈」は、洋上に独立して存在していたインド大陸が地核の移動によって北上し大陸に衝突、その衝突によって大陸と接合した...その時の、接合面に出来たシワシワが現在のヒマラヤである・・、ということは良く知れれている。

東京方面から空気の澄んだ日など富士山が見えるときがあるが、その富士の裾を邪魔して全容を遮っているのが丹沢山塊であり、無論、小生の住む厚木からは山塊が接近しているので全く遮られて見ることは出来ない。
ただ、丹沢富士とも呼ばれる「丹沢大山」の端正な姿が自宅正面に見えているのであるが・・。

相模の屋根といわれる丹沢山塊の山域は、概略で南は私鉄・小田急、国道246号線、北は道志街道・国道413号線に挟まれた南北約20km、西は山梨県境から東は大山山系の東西約50kmで、全体として神奈川県の面積の約6分の1を占める程である。

一般的に山域の分類としては、中央部の蛭ヶ岳を境に交通アクセス便利で開けている東丹沢、山深く交通アクセスのやや不便な西丹沢の2つに区分され、また、塔ノ岳以南を表丹沢や南丹沢、そして丹沢主稜以北を北丹沢又は裏丹沢と呼ぶこともある。
ただ、東丹沢は大山山系と記したが、その東に聳える仏果山系、更にその東に連なる低山ではあるが「鳶尾山系」を是非含めたいのである、つまり中津川を境に西部地域を東丹沢と・・。

何・・?、鳶尾山が丹沢だと・・?、そりゃないだろう・・!!、と言われるのも御尤もである。
実は鳶尾山は小生宅のすぐ裏手にあり、今でも体力保持のためのトレーニングの場であって、鳶尾山が東丹沢に一部というのは、いわば小生の私的願望も含まれているのである。 現在も尚、齢(よわい)70歳直前の今日、雨天、日曜、酷暑日などを除いて、ほぼ毎日高度差およそ150mの所を往来している。
最も近い登り口は自宅から徒歩で3、4分のところであるが、ルートは無数に有り歩行時間に応じて、其々のルートを目指しているが・・。
実際に、「東丹沢」と称するのは、中津川より西に派生するのが丹沢山地である・・、と言う意見も多数あるのも事実である。


次回は、 「丹沢の歴史」について・・、

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